菜摘ひかるを読む―071007
承前
菜摘ひかる『ボディ・テラピー』の追記
「私」の淋しさは「私」がイメクラ嬢であることに由来する
というふうに描かれている。
だがこの小説は、たとえばふつうのOLである「私」が「偽善と回避と怠惰とお金まみれでこんなに荒んだ私でも男に惚れることができるんだ」という実感を彼とのセックスでえる物語として、あるいは「気まぐれにこの部屋を訪れる彼の精液とその余韻」だけあれば「自分を見失わずに専業主婦のお仕事ができる」という専業主婦の「私」の物語として、書き換えが可能だ。
つまり「私」が公務員でもOLでも学生でも専業主婦でも派遣労働者でも資産家の娘でも妻でも、この小説は成立する。
おそらく「私」の淋しさは「私」が女の子であることそれ自体に由来している。
とりあえずそう考えてみる。
ただしモチーフの普遍性を、菜摘が意識している気配はない。
当時の菜摘は、いやもっと以前から、物心ついた少女時代からずっと、自分の問題と格闘するのに精一杯で、それどころじゃなかったのだと思う。
| 愛と悔恨のカーニバル (徳間文庫 う 7-3) 著者:打海 文三 |
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